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TALKS

森岡書店 TOKϴYO(常世)展

森岡督行(森岡書店 銀座店 店主) × 山田なつみ(写真家) 対談
+鈴木潤子
(ファシリテーター/キュレーター)

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◾️これまでの経緯:小さな偶然の重なりでつながった道

 

森岡さん(以下、森岡):

森岡書店を運営しております森岡と申します。本日は写真家の山田なつみさんとキュレーターの鈴木潤子さんをお招きし、なつみさんの写真の世界観についてお話ししていきたいと思います。

 

山田:

写真家の山田なつみです。本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。森岡書店での写真展は、以前茅場町にお店があった頃から相談していたのですが、何度か延期になっていたので、この日を迎えられてとても嬉しいです。

 

鈴⽊さん(以下、鈴木):

キュレーターの鈴木潤子と申します。私はフリーランスでキュレーターとして活動しておりまして、有楽町の無印良品にあるATELIER MUJIというギャラリースペースで、長年キュレーションを担当していました。森岡さんとは無印良品銀座店がオープンする時に、選書をご担当された関係で知り合いました。なつみさんとは、私がATELIER MUJIでキュレーターをしていた頃に、なつみさんが書いた記事をきっかけに展覧会を開催したご縁で知り合いました。まずは、なつみさんがどういう経緯で写真家になったのか教えていただけますか?

 

山田:

人との出会いや、全くの偶然が重なったことでこの道に進むことになりました。私は大学1年生の時に、マガジンハウスという出版社の『GINZA』というファッション誌の編集部でアルバイトをしていました。当時はまだデジタルカメラがそこまで普及しておらず、写真家もフィルムで撮っていた時代です。私は写真家の方々にフィルムを借りに行き、原稿を作ってまた返しに行くという仕事をして、編集の仕事を垣間見ていました。

 

鈴木:

最初は、ファッションに興味があったんですよね?

 

山田:

そうですね。当時、『GINZA』には淀川美代子さんという名物編集長がいらっしゃって、その神々しい姿を拝見しながらファッションエディターになりたいと思っていました。その後は、『Composite』という雑誌の編集部でアルバイトをし、そこではファッションの企画を立てたり、撮影のロケハンをしたりする中で、篠山紀信さんの撮影のロケ地を決めた経験もあります。写真とは直接関係がないものの、写真にまつわる仕事をしながら少しずつ写真と関わりを持っていきました。

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鈴木:

その頃はまだ写真家を目指していなかったのですか?パリに行こうとも思っていなかった?

 

山田:全く写真家を目指してはいなかったですし、パリに行こうとも考えていませんでした(笑)。大学を卒業する頃には、編集部にそのまま残ろうかと考えていたんです。けれどある時、『Composite』に寄稿していたドイツ出身のKatja Rahlwesというファッションエディターを見て彼女の元で働きたいと思い、メールで「私はファッションエディターになりたい」と伝えました。そしたら、「パリコレ中に、ウィーンのブランド『Wendy&Jim』のスタイリングの仕事があるからおいでよ」という返事をもらい、それからはフランス語を勉強しながら渡航費を貯めるために半導体の会社で働いていました。その後、勇気を振り絞ってパリに渡航しました。

 

鈴木:

そのときはスタッフとして雇われたのでしょうか?それとも単に呼ばれただけだった?

 

山田:

単に「おいでよ」と言われて、調子に乗って行ったんです(笑)。スタッフを募集していたわけじゃないのに無理やり押しかけたのでお給料もほとんどなく、本当に見習いという感じでしたが、仕事の進め方を学ぶことができました。ところが、私が行った後に彼女が「写真家になる」と言い始めたんです。「私は今後写真だけを撮るから、服を選ぶのはアシスタントに任せたい」と言い出したので、ファーストアシスタントと私の2人で服を選ぶことになりました。その時に「写真を撮る事は、そんなに楽しいの?」と思う瞬間がありましたね。

 

鈴木:

そこから、写真家の道が拓けたのですか?

 

山田:

いや、まだですね(笑)。私はその頃ファッションエディターになりたかったので、色々なメゾンを訪れていたのですが、その時に有色人種であるが故に、差別のような扱いを受けました。まるで透明人間のように扱われるのですが、その問題は自分のフランス語力にもあると感じました。そこで、もう一度フランス語を最初からやり直そうと思い、やるなら徹底的にやってやろうという気持ちで大学に入りました。日本に帰国しても役に立つようにと考えて、大学に入り直して言語学を学びました。その時初めて、写真を理解する記号学と言語学の関係が、とても深いところで太く繋がっていることを知りました。

 

鈴木:

それでフランス語が話せるようになったのですね。

 

山田:

そうですね。フランス語力は、アルバイトをしていたパリのお寿司屋さんでも培われました。その店が位置するエリアには低所得者層が住む団地があり、地域には、中東や北アフリカ、中国など様々な国から来た移民の方々が生活していて、お客さんとして来ていたり、一緒に働いたりしました。ユダヤ人学校からも近い場所です。お客さんの中には、やたらと写真を見せてくれる人がいて、お店のトイレの前にある写真集の色校正が貼ってありました。その写真があまりに素晴らしかったので店長に聞いたら、「お客さんとして来ているマグナム・フォトの人の写真だよ」と言われ、その常連客が世界的な写真家集団であるマグナム・フォトの写真家、Gueorgui Pinkhassovであることを知りました。次にPinkhassovさんが来た時にコンタクトシートと色校正とプリントを見せてもらい、その並々ならぬ世界観に惹き込まれてしまったんです。それで、「写真って面白いな、自分でも撮ってみたいな」と素直に感じました。

 

鈴木:

そこからご自身でも撮るようになったのですか?

 

山田:

そうですね。アルバイトの昼休みに近くの大きな公園に行って色々な人を撮るようになり、撮影を重ねる中であらゆる背景を持った方々に出会いました。それまで夢見ていたファッションフォトとは真逆のスタイルですが、人々の日常を切り取る写真の魅力に惹かれ、撮り続けてみたいと思ったんです。ピンカソフさんはいつも簡素なナイロン生地の上着を着ていて、自分をカッコよく見せようというそぶりは一切なく、まるで空気のような存在でした。彼は言葉では何も言っていませんが、写真を撮るということは、今いる場所に吹く風のような存在になることだと学んだ気がします。

 

鈴木:

森岡さんとなつみさんの出会いについて伺ってもいいですか?

 

森岡:

なつみさんがパリにいた15、16年くらい前に、一本のメールをいただいたのがきっかけです。そのメールは、なつみさんがフランスで非常に心を動かされた絵本を、日本でもぜひ伝えてほしいという内容でした。それから程なくして私がその絵本を手に取って見る機会があり、「確かに良い本だな」とは思っていたのですが、そのままになっていて。ある日たまたま『天然生活』の編集部の田村さんという方が来店したので、彼女にその絵本を紹介したんです。そしたら彼女もとても胸を打たれたようで、「『天然生活』の誌面を使って紹介しましょう」ということになりました。

 

鈴木:

それが、『夢見る指先』という絵本ですね。フランスの絵本工房が手作りで世界に送り出している絵本。弱視や目の見えない子どもたちも読むことができます。私は『天然生活』の記事を読んで「いつかこの絵本を展覧会にしたい」と思ったんです。それから8年くらいずっとネタとして持っていて、機会を探っていました。その後、『ATELIER MUJI』で展覧会を実現しようと思い、『天然生活』の編集部に電話しました。編集部からは承諾を得たのですが、「実はこの記事は編集部の記事ではなく、パリにいるライターの方が取材した持ち込み記事なんです」と言われました。その方に連絡したいとお願いし、すでに日本に帰国していたなつみさんを紹介していただいたわけです。

 

森岡:

なつみさんの行動力あってのご縁ですね。今日なつみさんの話を聞いていてつくづく思ったのは、どんな小さなことでも挑戦し続けると、これだけ人生を輝かせることができるということです。

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◾️色彩感覚、ユーモア。ユダヤ人作家たちの目線から

(EARLY COLORの写真を入れる)

 

鈴木:

森岡さんに、写真について少しお話しいただきたいと思います。

 

森岡:

そうですね。今日はSaul Leiterの写真集『Early Color』のフランス版を持って来ました。私は2023年に、森岡書店の渋谷ヒカリエ店で「Saul Leiter 日本関係蔵書展」を主催しました。彼は日本の技術に関心があって、たくさん日本関係の書籍を持っていたからです。ソール・ライターの特徴を3つ挙げるとしたら、1つ目は鏡を画角の中に入れて写真を撮るという手法です。彼は文字を右から左に鏡文字で書いていたそうで、きっと反転した世界観を持っていたのだろうと思います。2つ目は雪のイメージです。これは日本の浮世絵に影響を受けたと言われています。3つ目は特に赤や黄色といった色を多用するという点です。彼が活動していた当時のKodak社のカラーフィルムは、白人の肌色が青味の強いトーンになって病的に見えてしまわないように、黄色味が出やすくなるよう調整されているという話を聞いたことがあります。このフイルムを使い続けたSaul Leiterも黄色という色に非常に強い思いを持っていたんだろうと考えられますね。ユダヤ教において黄色というものは、忌み嫌われている色だと教わったことがあります。最後の晩餐で13人目が着ていた服が黄色だったので、黄色というのは遠ざけて然るべき色だと聞きました。その説で考えると、ソール・ライターが黄色を多用しているのは、ユダヤ教の文化に一線を引いているというメッセージじゃないかと考えられますね。

(マラマッドの魔法の樽の写真を入れる)

山田:

黄色というのは、ユダヤ人を識別する色ですね。私は大学の卒論でユダヤ人文学を取り上げました。Bernard Malamudというユダヤ人作家の『魔法の樽 (The Magic Barrel)』という短編小説を主軸に、Woddy Allenの映画も論じました。ここに『魔法の樽』の原書がありますが、この表紙の黄色は偶然ではなく、ユダヤ人を象徴する黄色なんです。もし私が卒論でマラマッドを取り上げていなかったら、自分の目の前の世界を写真にしようとは思わなかったでしょう。

私は、Saul Leiterの⽣き⽅は、マラマッドの世界観とよく似ていると思います。イディッシュ語(中欧・東欧のユダヤ人の間で話されている言語)で「Schlemiel(シュレミエル)」という言葉があるのですが、これはどうしても不幸な立場に陥ってしまう野暮な自分を、面白おかしく嘲笑うというユダヤ文化独特のユーモアです。ソール・ライターは結局、お金のためにやっていたファッションの仕事を辞めてしまったと認識しています。

 

森岡:

今のなつみさんの話には、本当に色々な説があるのでどの説を採用するかによるのですが、

事実、彼は1946年にピッツバーグからニューヨークに移り住み、『VOGUE』や『Harper's BAZAAR』などでファッション写真を撮るようになって、70年代には大成功しました。でもある時その仕事を辞めてしまうんです。その理由のひとつは、モデルであり最愛のパートナーでもあったSoames Bantryさんの存在だったそうです。その後、彼女との慎ましい生活が2000年代初頭まで続き、『Early Color』が出版されて、また世界的に大ブレイクしました。Saul LeiterはSoamesさんを生涯愛し、Soamesさんのために絵を描き、写真を撮った時代があった。このように、ある人に向けて行う行為や、愛に基づく活動はすごく強いなと思うわけです。なつみさんが情熱に動かされて記事にして、鈴木さんが企画した絵本の展覧会も同様ですね。

​(夢見る指先のアトリエの写真、本の写真、2点を入れる)

 

鈴木:

そうですね。『夢見る指先』は、フランスのブルゴーニュ地方の田舎町の工房で、ボランティアたちの手で一冊一冊丁寧に作られています。2016年には、世界最大の児童書の見本市であるボローニャ・ブックフェア(Bologna Children’s Book Fair)のラガッツィ障がいの本賞を受賞しているそうです。なつみさんがファッションエディターになると言ってパリへ行き、なぜかカメラを手に取り、さらになぜかこの素晴らしい絵本に出会った。並々ならぬ行動力と、自分の発想を疑わない勇気が全ての発端となり、それが今回展示されている写真にも表れていると思うんです。制作においても、知性と感性ハイブリッド感があるように思います。

 

山田:

以前、福島県の郡山美術館にSaul Leiter展を見に行ったことがあるのですが、そこには短冊形の小さな作品が展示されていました。スニペット(断片)として紹介されていたそれらの作品は、恐らくベタ焼きを切り貼りしたものだと思います。このように、印画紙とフイルムを重ね合わせ、露光してコンタクトシートを作成するというのは、写真家が撮ったものを記録として残しておくための作業です。私は気に入ったショットがあると、コンタクトシートの一部を自分の部屋やアトリエの壁にピンで貼っておきます。この手法がソール・ライターの手法と似ていると思い、驚きました。そこに貼ってある写真自体が控えめに「引き伸ばしてほしい」「焼いてほしい」と私に語りかけてくることがあるんです。それで、どれをプリントするか、どの順序で写真をプリントするか、自分の気持ちが固まるのを一緒に過ごしながら決めています。

 

今回は、以前写真集を作る時には語りかけてこなかったもの、つまりベタ焼きとして部屋に置いておいた写真の中から、10年くらいの時を経て語りかけてきたものをプリントしました。私は流産を2回経験していて、今回展示した子どもの写真は「最初の子が大きくなっていたらこれくらいの年かな」などというように、偶然出会って被写体となった子どもたちに流産した子どもたちの背丈や気持ちを重ねて撮っています。

 

鈴木:

それは、意識して撮っていたのですか?それとも撮っていたらそうなった?

 

山田:

撮っていたら偶然そうなっていました。私の娘は10月に生まれたので、首が座ってきた6ヶ月の頃に春を迎えて、一緒に近くの川へお花見に行ったんです。そこで満開の桜を目にした時に、私は自分が地球というお母さんの胎内にいるような気持ちになりました。桜の枝がまるで胎内の血管のように見えて。自分がこの世界で生かされているという気持ちが込み上げてきたんですね。ここにある桜の写真はその瞬間に撮った写真です。

◾️光と影が焼き付けるもの、その間にある“常世”の世界観

 

山田:

私が住んでいる宮城県角田市には先祖の霊を弔うお祭り『金津の七夕』があります。りんご飴やわたあめの屋台が並ぶ、田舎のお祭りらしいお祭りで、最初に子どもたちが照明も提灯もつけずに「カラオクリ」という邪気を追い払う行進を行なって、その後に「ホンオクリ」という提灯行列を行います。その途中でパッと写真を撮ったのですが、前の人が持っている提灯の光が筋になって残っている写真になりました。それを見て「写真は影絵だな」と思ったんです。つまり、写真とは見えているありのままの世界ではなく、この世とは反転した世界だと気づかせてくれました。

 

今回は影を意識して、空間の一方の壁にネガティブな影絵を、反対側の壁にはポジティヴな光画を展示しています。私にとって影が重要な役割を果たしていますので、光と影でひとつになる世界観を表現しています。鑑賞者はその真ん中に立つのですが、その場所はこの世でもあの世でもない第3世界、つまり「常世」の世界にいるというふうに表現しています。

 

鈴木:

今の話にはなつみさんが住んでいる東北の風習や考え方、死生観などがあったのですが、「ものを写すとはどういうことか」について、もう少しお話しいただけますか?

 

山田:

森岡さんも以前ご自身の著書で紹介されていた、スロベニア人のEvgen Bavcarという写真家がいます。全盲の写真家である彼を知った時に、私は「自分と同じ考えを持っている人だ」と思いました。というのも、私には「目が見える人も見えない人も共通で思い描くであろう、心象風景を写真にしてみたい」という野望があるんです。Bavcarは「写真は心の鏡に映った世界」と言っています。つまり、心象世界を撮っているということです。ライカの自動撮影モードを使用しているのですが、誰か媒介者となる人がいないと撮影ができません。彼はその媒介者に「目の前にある風景はどんなものですか」と尋ね、モデルに「あなたは今どんなポーズを取っていますか」と会話しながら撮影するそうです。

 

彼は写真がプリントされてもそれを目で見ることはできませんが、その作品は完全に成立しています。写真は見る側にとってもそうですが、作者である本人にとっても、自分の心象をプリントという実際に触れられるモノになることに意味があります。「デジタル写真はある意味で盲目的だ。なぜかというと、デジタルカメラには媒介するモノがない。しかし、フイルムカメラは、フィルムという感度が高い物質にイメージを焼き付ける。その機能は、人が網膜に焼き付けることととても似ている」と彼は言います。この考えがすごく面白いと思いました。

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小髙:

ラピュタの飛行石が写真だったという発想は面白いですね。宮城県山元町で活動する「思い出サルベージ」というプロジェクトを思い出しました。震災で流されてしまった写真を洗浄して、持ち主の元に届けるという活動をされているのですが、自分の家族や愛する人との記憶や繋がりが、写真で作られているのだと改めて感じさせられます。だからこそ写真がなくなってしまった喪失感は相当なものでしょうし、小さい頃の記憶って、写真を見て自分で作っているという部分もあると思います。そうした意味でも写真の存在は大きいですね。

山田:

フランス人は赤ちゃんを生後数ヶ月から1人で寝かせているのですが、フランスの育児書には、子供を寝かしつける時に家族写真を見せると安心すると書いてありました。私は写真が絵本のように使われていることに衝撃を受け、すぐさま自分の子にも実践したのです。すると、忙しくてなかなか一緒にいられないパパも近くに感じることができたのか、娘は安心した様子で眠りにつきました。その共有感や親密感を満喫できるというのは、手のひらサイズの紙焼き写真だからこその魅力だと思いましたね。

小髙:

最後に、今取り組んでいる活動について教えていただけますか?

山田:

私の住む角田市の教育委員会からの依頼で、街の商店街とそこで働く人々の風景を撮影し、ステレオグラフにしています。この写真を20年間保存した後に、玉手箱のように市民に再び公開するという企画です。その頃、私の5歳の娘は25歳になっていますが、彼女はステレオスコープになった故郷をどんなふうに覗き見るのだろうかと今から楽しみです。とても意義・意味がある活動だなと思って、今頑張っています。

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