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TALKS

仙台写真月間 2019

小髙美穂 × 山田なつみ

対談

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​山田:

写真家の山田なつみと申します。私は目に見えない境界線に魅せられて写真を撮っています。以前は、この世でもあの世でもない「常世」という世界観をテーマにした写真集を出版したことがあります。今回の仙台写真月間で発表したのは、ステレオグラフという写真作品です。ステレオグラフとは、わずかにずらした2枚の写真を左右の目で別々に見ることで、立体感や奥行きを感じる写真のことです。以前私が住んでいたパリでは、蚤の市でステレオグラフがたくさん売られていて、2枚の写真をステレオスコープという装置(ビューア)を通して見ると、自分が境界線を超えてその写真の中にいるような気持ちになるのです。まるで過去にタイムスリップしたかのような没入感や臨場感を自分でも表現してみたいと思い、シリーズ化することにしました。

小髙:

写真キュレーターの小髙と申します。今回のなつみさんの作品は、ステレオスコープというかなり古典的な「見る」という行為に焦点が当てられています。2枚組の微妙にズレた写真をステレオスコープで見ることで、脳の中で1枚の写真として重ね合わせているのです。ステレオグラフでは、平面の写真が立体感や奥行き感をもって再現されるのですが、パソコンやスマホで日々画像に触れる現代においても、新鮮な感動やワクワク感を得ることができますし、ステレオスコープを覗いた時に写真の中の人がジオラマのように再現されるところも魅力です。画像は「シェア」される時代にありますが、ステレオスコープを覗き見るという行為は、劇場の中に閉じ込められて1人で密やかに見るような、ドキドキした感覚を呼び起こしてくれるのです。アーチ状のフレーミングも劇場感を演出していますね。なつみさんはどこでこの写真を撮影したのですか?

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山田:

これは、2年前に亡くなった義理の母と一緒に、南フランスを旅した時の写真です。私たちは家業で採石業を営んでいるのですが、たまたま泊まっていた場所の近くに採石場があると言われて何気なく立ち寄ってみました。どんどん奥に進んでいく義母を追いかけるような形で撮った単なる旅の記録だったのですが、後でこの採石場はフランスの映画監督ジャン・コクトーが映画『オルフェ』の煉獄のシーンを撮った場所だということを知りました。死後の魂が浄化され、冥界を通って現実と死後の世界の間にあるこの場所を通って審判を受ける。つまり、この映画ではフランス版の「常世」を意味する場所だったわけです。義母が他界した後にその写真を眺めていると、彼女は本当にその場所に行ってしまったんだと思って感慨深いものがありましたし、日を追うごとに意味合いや親密度が増してくるという点が写真の魅力でもあると感じました。義母は病床で何度もその旅のことを「楽しかった」「夫や息子にも見せたかった」と話していたので、この写真をステレオグラフにして私の夫や義父にも見せてあげたいという気持ちになったのです。

 

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小髙:

ステレオグラフは写真の誕生から間もなく登場し、日本でも幕末ぐらいから撮られています。私個人的にも魅了されていて、これまでにも写真の企画展などでステレオスコープを覗き見る作品を鑑賞したり、蚤の市で鶏卵紙にプリントされた大正時代のステレオグラフを買ったりもしています。私が購入したものは個人的な写真でしたが、なつみさんも個人的な旅というものをステレオスコープという小さな世界に閉じ込めたというところがすごく面白いですね。

山田:

ありがとうございます。私の祖父が亡くなった時に、若かりし頃の戦前の写真がたくさん詰められた重い木箱が見つかりました。手札版の写真だったのですが、それを見た時の「発酵感」がものすごくて、衝撃を受けたのを覚えています。残念ながらそれらの写真はお棺に入れて燃やしてしまったのですが、こうした経験もあって、今回展示している作品は「発酵感」を感じさせる木箱のような額装にしてあります。

小髙:

先ほど手札版というサイズのお話がありましたが、写真表現においてサイズというのはすごく重要だと思っています。昔はよくペンダントの中に恋人の写真を入れて体に身につけていましたよね。その後手札サイズの写真が普及して、親しい人たちと贈り合ったりもしていました。手に収まるサイズにすることで、写真という物質への親密さが増すのだと思います。最近は大きなサイズの作品が多く、視覚的に画像が溢れている時代ですので、丁寧にひとつの作品を見るという点でも今回の展示は意義深いものだと思います。「発酵」という言葉にも象徴されるように、写真は時代や見るタイミングによって捉え方がどんどん変化します。なつみさんの作品も、義理のお母さんがこの世にいなくなってしまった時点で意味合いが変わってきたと聞いて、生き物のように変化していくというのが写真の奥深さだということを改めて感じました。

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​山田:

ステレオスコープを1人で覗き見るという行為は、先ほどの小髙さんのお話にもあった「親密性」と結びついています。誰かの活動を覗き見ることで、あたかも自分事のように疑似体験ができる。写真が大きいほど迫力があるのかといったらそうではなく、プリントとの距離感がどれだけ自分と密接に結びついているのかが大事なのだと思います。今回は透明のメガネにしたのですが、覗き見るタイプのステレオスコープであれば、より親密度が増します。今回の展示を始める前に地元の眼鏡屋さんでお話を伺ったところ、眼鏡と同様に見る人によって見え方に違いがあるので、ステレオスコープもなるべく多くの人が同じ条件で見られるような汎用型にしたらどうかとアドバイスをいただきました。同じ写真を見ていても人によって違った印象を受けることがありますが、こうした身体的な違いも「見る」ということに影響しているのだということを学びました。今回の展示では作品タイトルのキャプションとして石や貝殻を用いたのですが、小髙さんも石好きでしたよね? 

小髙:

私は河原や海、路傍に落ちている名もない石を拾うということが大好きで、写真を撮ることと石を拾うことってすごく似ているなと思っています。名もなき石に価値を見出して「拾う・選び取る」という行為が、写真の「瞬間を選び取る」こととすごく近いですよね。

山田:

私の5歳の娘は石や貝を拾うのが好きなのですが、その理由を尋ねると「その時のことを全部思い出すから」という答えが返ってきました。それを聞いて、写真に共通していると感じましたね。写真は一枚の紙にすぎませんが、それを手にした時の質感や、撮影した時の天気や、話した内容までありありと蘇ってきます。今回は、石や貝殻を写真と同じ価値のあるものとして表現したくて、一緒に並べて展示しました。スタジオジブリの映画『天空の城ラピュタ』に出てくる飛行石は、ペンダントになったり、家を支えたり、家系のアイデンティティーになったりしますが、個人的にあれは写真なのではないかと思っています。時間と空間をいとも簡単に飛び越えさせる写真という物体が、あの飛行石的な存在のように思えてならないのです。

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小髙:

ラピュタの飛行石が写真だったという発想は面白いですね。宮城県山元町で活動する「思い出サルベージ」というプロジェクトを思い出しました。震災で流されてしまった写真を洗浄して、持ち主の元に届けるという活動をされているのですが、自分の家族や愛する人との記憶や繋がりが、写真で作られているのだと改めて感じさせられます。だからこそ写真がなくなってしまった喪失感は相当なものでしょうし、小さい頃の記憶って、写真を見て自分で作っているという部分もあると思います。そうした意味でも写真の存在は大きいですね。

山田:

フランス人は赤ちゃんを生後数ヶ月から1人で寝かせているのですが、フランスの育児書には、子供を寝かしつける時に家族写真を見せると安心すると書いてありました。私は写真が絵本のように使われていることに衝撃を受け、すぐさま自分の子にも実践したのです。すると、忙しくてなかなか一緒にいられないパパも近くに感じることができたのか、娘は安心した様子で眠りにつきました。その共有感や親密感を満喫できるというのは、手のひらサイズの紙焼き写真だからこその魅力だと思いましたね。

小髙:

最後に、今取り組んでいる活動について教えていただけますか?

山田:

私の住む角田市の教育委員会からの依頼で、街の商店街とそこで働く人々の風景を撮影し、ステレオグラフにしています。この写真を20年間保存した後に、玉手箱のように市民に再び公開するという企画です。その頃、私の5歳の娘は25歳になっていますが、彼女はステレオスコープになった故郷をどんなふうに覗き見るのだろうかと今から楽しみです。とても意義・意味がある活動だなと思って、今頑張っています。

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