ARTIST TALK
Galerie Springer Berlin Looks Like Abstraction(まるで抽象のよう)展
マリット・レナ・ヘルマン(美術史家・キュレーター)+ 山田なつみ(写真家) 対談

Marit Herrmann(以下、Hermann):
本日はこのような機会を設けていただきありがとうございます。1週間がかりで今日のアーティストトークの準備をしたので、なつみさんの作品について直接お話しできるのを楽しみにしていました。流れとしては、具象から抽象へと話を進めていきたいと思います。今回の作品は10年かけて制作したそうですが、当初のアプローチはどのようなものだったのでしょうか?最初の瞬間について教えてください。
山田なつみ(以下、NATSOUMI ):
約10年前に娘が生まれ、遠くへ行けないという制約があったことが制作の大きな転換期となりました。私は結婚する前までパリに住んでいて、デザイン関係の雑誌などで編集者として活動していたのですが、その頃は様々なヨーロッパの都市を訪れたり、デザイナーやクリエイターの方々とお話ししたりするという自由奔放な生活を送っていました。そんな生活から一転、結婚を機に東北という寒くて気候の厳しいところに引っ越したので、その本当に限られた、娘と一緒に歩いていける範囲でどこまでチャレンジできるかというのが私の新しい目標になりました。
Herrmann:
今回展示された作品には、実際に娘さんと一緒に歩いて行ける場所で撮影されたものが写っているそうですが、具体的には何なのでしょうか?
NATSOUMI :
これは日本に約36万本あると言われている電柱です。日本には、黒と黄色の反射板が取り付けられている電柱があり、黒と黄色の塗装が日光や風、寒さ、暑さなどで色褪せてしまうと、元のアルミ素材が露出します。全ての反射板がそうなっているわけではありませんが、私の目を引いたいくつかの電柱は、アルミが剥き出しになっている状態でした。その色が変化していることに最初に気づいたのは、娘です。なぜかというと、その反射板が大人の目線ではなく、子どもの目線の高さに取り付けられているからです。娘は段々と色が変化していく様子が面白いと言っていたので、私もそれに同意して写真を撮るようになりました。これは私が歩いていける範囲だからこそ見えた世界だと思います。そして、完全に屋外で撮っているので、光が当たっている朝の決められた時間に行かなければなりません。家で洗濯をしていても何をしていても、すぐに行けるような場所で撮影した電柱の写真は、他の人には撮れないものだと思います。

Herrmann:
母になったことで、行動範囲が決まったということですね。それと同時に朝の日の光が当たる瞬間という制限もあったということで、作品の裏に興味深い背景があることがわかりました。この作品は9年かけて変化してきたと伺いました。カラー写真を制作する前は、銀塩の印画紙にプリントしていたそうですが、今回は越前和紙にプリントしています。こうした挑戦が結実したと思われますか?

NATSOUMI :
そうですね。最初はゼラチンシルバープリントで制作していたのですが、前の作品シリーズ『TOKϴYO(常世)』と被ってしまうので、そこから脱却しきれないという思いがありました。こちらのギャラリーのオーナーからも同じようなご指摘を頂いたので、今回はプリントの手法を変えてみました。和紙にプリントすると言っても、その特性を理解する必要があります。私は、自分の子どもが幼くて手がかかる時期に、大したことができないのは承知でしたので、表具を学ぶことにしました。土曜日の午前中に仙台の表具師の先生のところへ行き、保育園に通っていた子どもを連れて、和紙を裏打ちしたり、掛け軸を作ったりと色々と学ばせてもらいました。おかげさまで、和紙の特性に対する理解が深まり、こちらの展示では和紙を生かした喰い裂きという技法を使って作品を仕上げました。写真を額装すると、プリントと額縁の間に生じるわずかな隙間には、鋭角な隙間が生じます。しかし、外縁がふわっとした和紙の喰い裂き技法を用いることによってプリントと余白の間に自然な余韻が生まれます。
こちらベルリン、9月中旬ですが、街中でたくさんのミツバチを見かけます。ミツバチは、優れた記憶力と学習能力を持っていて、巣の位置、花の香り、色、形態、開花時刻、花の咲いている場所を的確に知っています。それは、花の咲いている場所などを覚え、再訪する際に役立てているからです。そんな感じで、自分しか知らない、自分が置かれた限られた世界を、ミツバチのように無心になって、我を忘れて撮ったという経緯があります。

Herrmann:
ある文書で、なつみさんが自分の被写体と一体化した瞬間があったというのを読みましたが、そのことについてお話しいただけますか?
NATSOUMI :
そうですね。太陽が昇り、剥き出しになった金属に光が反射する様子を撮影する時に起きたことなのですが、目の前にある光がまるで自分と一体化するような感覚がありました。
Herrmann:
この写真は本当に美しい作品でありながら、「電柱」という非常に具体的な物体を写したものでもあります。あまりにも当たり前すぎて気づかれないけれど、実は日本の風景の中に線を引くかのようにどこにでもある。これを母親の役割と比較していると思うのですが、見えない部分についてもう少しご説明いただけますか?
NATSOUMI :
子育てに追われる日々の中で、冬場のある時に自分の手を見たらすごくひび割れしていました。本当に見るに耐えないような手肌をしていたんです。特に日本の東北地方はとても寒いので、手だけではなく顔も同じような状態になっていました。先ほど娘が最初に反射板の存在に気付いたと申し上げましたが、娘は2、3歳ぐらいの頃に保育園まで行く道のりで、電柱の1本1本で立ち止まっていました。電柱は電気という大切なインフラを供給しているのに、雨ざらしになってボロボロになっても誰にも気づかれず、電気の供給をやって当たり前だと思われている。私も、疲れ果てて具合が悪くて横になっていると家人に「寝ていられて楽でいいな」と小言を言われたこともあり、子育てや家事をすることをやって当たり前だと思われているようで、フラストレーションが溜まっていました。ですから、本当にその頃の自分自身を見ているような、電柱と自分が同化するような感覚がありました。
Herrmann:
とても興味深い視点ですね。母親の役割というのは義務があって、社会の標準や、社会から求められることがあると思います。電柱も同じく実際の役割を遂行する中でひびが入って、そこから裏にあるものが出てくる。その変化が幼虫から蝶に変わるようなメタモルフォーゼ(変化・変身)のように思えますし、それがなつみさんの作品の根底にも流れているように感じます。この作品にはフランス語の「ユビキテ」というタイトルがついていますが、それについてお話しいただけますか?
NATSOUMI :
ユビキテというのはフランス語で、「同時に何箇所にも存在する」という意味と、そこから派生して、宗教的な「神の偏在」という2つの意味があります。私が感じたのは、黒と黄色の反射板というのは、現代社会が女性に与えたレッテルや役割を意味しているということです。そこから、「あなたはこうありなさい」「こういう役割を果たしなさい」というプレッシャーの中で、色々な試練に耐えて、雨風にさらされても、自分で自分のあり方を模索し、そして再定義しながら自由に生きる女性像が見えてきたんです。遠くに行けないから不自由なのではなく、限られた場所にいても、自分で自分の新境地を切り拓いていけるんじゃないか?そんな風に思って自分の道を突き進もうと決意し、このシリーズを撮っていました。なので、各作品のタイトルには「Déconstruction 脱構築」がつけられています。余談ですが、日本神話に登場する最も重要な太陽神は、天照大御神です。神様は樹木に宿るということで、「1神、2神...」ではなく、電柱と同じく「1柱、2柱...」と数えるというのも興味深いなと思います。

Herrmann:
制限の中で世界を切り拓いていき、制限を建設的に使っていくことでこの作品が生まれたのですね。事前にお話しした際に、被写体と通い合う瞬間や、被写体の前で立ち止まる瞬間があるということで、それを西田幾多郎の純粋経験と結びつけていらっしゃいました。この純粋経験について詳しく教えていただけますか?
NATSOUMI :
純粋経験には数種類あると言われていますが、大きく分けて4つあり、ひとつ目は、子どもの発達初期の自他未分化な意識の状態。ふたつ目は、西田幾多郎が「色を見、音を聞く刹那」と表現しているのですが、美しい音楽や花を目の当たりにして、自分と何か他のものが自己と一体化するような経験です。三つ目は訓練を重ねることで体が自然に動き、その動きに身を任せて作業やクリエーションができるという経験です。後者はスポーツ選手や音楽家の方がよく経験するものだと言われています。最後の項目は、芸術家や宗教家が持つ「知的直観」を指します。超感性的なものや物事の本質を感性的直感の媒介や論証などの手段によることなく、直接的に把握する認識能力です。写真を撮るという行為は、被写体と一体化すること、そしてそれを知的直観によって、体に染み付いた感覚でカメラを操るという純粋経験を隈なく遂げられる行為だと思います。
Herrmann:
では、なつみさんの作品を鑑賞する方々にも、純粋経験をしてもらいたいと思いますか?たとえば、純粋経験というのは、思考が働く前に「見る」「出会う」といった一瞬の出来事だと思うのですが、見る人とこの作品が一体化したような体験をしてもらいたいという希望はありますか?
NATSOUMI :
まさしくおっしゃる通りで、鑑賞者には言葉になる前のはっとする一瞬を経験してもらいたいです。純粋経験は、子どもの行為に当てはめると、小石やビー玉、ゴミでもいいのですが、それを見つけて「あっ!」という驚きを感じた瞬間です。先日も娘とアリの行列を見つけて、自分たちとアリを完全に同化させ、アリたちが獲物を巣に持ち帰る姿を飽きることなく見つめていました。私はカメラを持ち歩いているので、日常の中でその瞬間を写真に収めることができているわけです。

Herrmann:
具体的には、どのようにして被写体にはっとする瞬間を見つけていくのですか?
NATSOUMI :
やはり光ですね。闇の中にある光を見つけたときに、はっとします。ちょうどこの作品を作っているときに、私の好きな作家ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』という本を読んでいたのですが、その中で彼女が灯台と自分自身を重ねている場面があります。主人公であるラムジー夫人は子どもたちが寝床につき、すべての家事を終えた深夜、ようやく手に入れたひとり時間に編み物をしながら窓の外を眺めます。ウルフは夫人の心情を以下のように綴ります。
日頃の自分を脱ぎ捨ててこそ、苛立ち、焦り、心の動揺などがかき消えていく、そしてこの平穏さ、この休息、この永遠の時間の只中で、さまざまのことが一つに重なり合うとき、(中略)灯台の光、あの三度目に放たれる長い一投(ストローク)迎え入れるべく、静かに目を上げ、『あの光は私だ』と独り言つ。
ウルフは、熱心なアマチュア写真家でした。(参照:Harvard University Library)私は確信しています。写真を撮るという行為そのものが、英国人女性小説家の文体の骨子を形成したのだと。ウルフの小説全体に通底して描かれているのは、「意識の流れ」という手法で、何かになる以前のものそれ自体、言葉になる前の感覚、瞬間を写実的に言葉で表現するという、矛盾した挑戦でした。そして、ウルフが綴った『灯台へ』の本文はこのように続きます。
Virginia Woolf Monk's House photograph album, MH-5, 1892-1938 and undated Harvard University Library
いつもこんな時間にこんな気分で周囲を見ていると、見ている何かに自分が溶け込んでいくような気がする。あのゆっくりと長い光にしても、まるで自分のもののように感じられる。(中略)時々夫人は、手仕事を抱えてすわったまま、じっと何かを繰り返し見つめていて、やがて自分が見つめているもの —— たとえばこの灯台の灯り(ライト)—— と一体となる思いに見舞われることがあった(中略)一人でいると身の回りの動かないもの— 木々や流れや花など— に心が傾き、それらが自分を表しているような気がしてくる。それらは自分をよく知っていて、ある意味では自分の一部のように思え(彼女は灯台の長くしっかりした光に目をやった)、うまく説明できないが、それらに対して自分に対するような優しい気持ちになる。
(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳 岩波文庫)
ここでウルフが伝えようとしたのは、純粋経験だったのではないでしょうか?偶然ですが、私の作品においても、カメラを媒体として、自己と被写体が渾然一体となる瞬間を捉えることは、重要な鍵となっています。
Herrmann:
続いて、ご自身がお子さんに授乳している姿をソフトフォーカスで捉えた『Eternal Void』という作品、そしてこの電柱の抽象的な写真シリーズ『UBIQUITÉ』との関係性について話したいと思います。特に、『Eternal Void』と『UBIQUITÉ』は、同じ越前和紙にプリントし、同じような黒い額縁に飾られているのですが、この作品についてご説明いただけますか?
NATSOUMI :
私は自分に子どもが生まれたら、写真をはっきりとした線で撮れると思っていました。しかし、実際にやってみると子どもと自分との距離が近すぎて、ピンボケするということに気づいたんです。かといって、タイマーを使ったら今度は瞬間を逃してしまう。このように試行錯誤しているうちに、ピンボケのソフトフォーカスの写真もこれはこれで私にしか撮れない写真だなということに気がつきました。今回は黒くて厚い額縁に入れて、作品の下部をラフに展示しています。思い出というのはすごく縁が曖昧で緩やかなものだと思うので、かっちりしたものではなく、思い出を思い出のままに表現できたらいいなという私の気持ちが反映されています。
Herrmann:
この展示は、作品が宙に浮いているように動いているところがとても素敵だと思います。この奥の作品『Eternal Void』には自画像という副題がついていますが、電柱の作品も自画像だと言えますか?
NATSOUMI :
そうですね。全くその通りです。

Herrmann:
では、奥の景色の作品、『À L’AURORE BLEUTÉE(東雲)』もそうですか?
NATSOUMI :
そうですね。私は青という色が母親の心境を表している気がするんです。青は結婚式でも使われる幸せの色であり、信頼という意味もあります。しかし同時に、寂しさや不安定さも表している。さらに、青い色をした地球は「マザーアース(母なる地球)」と呼ばれています。信頼と不安を同時に示す色として、青は子育て中の自分と呼応するところが多いと感じています。

À L’AURORE BLEUTÉE(東雲) © NATSOUMI photo : Maria Jauregui Ponte
Herrmann:
つまり二面性があるということですね。青い色の地球というのは、「ユビキテ」という言葉にもつながってくると思います。
NATSOUMI :
私たちは普通に生活をしていると、青い色をした地球にいることさえ忘れてしまい、限られた地域でしか物事を考えなかったり、ルーティンのことしか考えられなかったりします。でも私たちは実際に、全体が青色に包まれた星にいる。これも私が伝えたかったことです。
Hermann:
今お話を聞いていて、なつみさんは当たり前の日常の中で特別な瞬間を見出し、限られた範囲の中で道を切り拓き、純粋経験を日常の中で見つけるという、瞑想的な旅をしていると理解しました。写真家、アーティストとしてのなつみさんにとって、創作することは日記をつけることだとおっしゃっていましたが、それについても教えていただけますか?
NATSOUMI :
私の場合、人に見せることを前提として創作しているというよりは、自分の日常の中で起きたことを日記に書き留めるように写真を撮っています。写真は私にとって見せる事ではなく、伝えることなのです。今回の展示では、個人的な純粋経験を綴った写真をこちらの画廊のメインホールに飾らせてもらえる幸運に恵まれたのですが、そうでなくても(ただ作品と向き合えるだけで)私は結構幸せです。日常に何があったのか、どういう写真を撮ってどういう生活をしたのかを書き記すと、SNSでは表せない、外面ではない、本当の自分と向き合うことができ、すごくほっとしますし、その延長線上に私の制作活動があります。
Herrmann:
そうした日記的なところから始まった作品が、こうして実際に壁に飾られているわけですが、画廊に飾られた作品を見てどんなお気持ちですか?
NATSOUMI :
Galerie Springer Berlinのグループ展で飾られる写真になるとは、撮影時には予想もしていませんでしたので、驚きの一言です。
Herrmann:
なつみさんの方から、最後にこれは言っておきたいということがあればお願いします。
NATSOUMI :
私は日記をつけるように日々制作をしているのですが、紙にプリントするという行為は、紙の日記に自分の思いを託しているような感覚です。またインターネット上の画像とは異なり、自分の本当に大事なものだけを、限られたスペースに写すことができるという点でも、私は日々写真に救われています。

マリット・レナ・ヘルマン Marit Lena Herrmann
美術史家、研究者、フォト・アーセナル・ウィーン(FOTO ARSENAL WIEN) キュレーター。主にクィアおよびフェミニズムの視覚文化に造詣が深い。ベルリンのフンボルト大学およびウィーンで芸術と視覚文化を学び、これまでオストクロイツ写真エージェンシーや、ライプツィヒの著名な出版社であるスペクター・ブックス(Spector Books)など、多様な機関と共同で展覧会や出版プロジェクトを手がける。2023年には、ドイツ証券取引所写真財団(Deutsche Börse Photography Foundation)のマスタークラスにおいてウテ・マラー(Ute Malher)と共に共同講師を務め、パリのゲーテ・インスティトゥートで開催された展覧会のキュレーションを担当。直近では、ヨーロッパ写真月間2025の一環としてドイツ芸術アカデミー(AdK)にてメイン展覧会『Ein Dorf / A Village』を企画したほか、2026年1月に開幕したミシェル・ピエルゴラムによる『Across the Water』や、チアゴ・ノゲイラ (Thyago Nogueira) と共同キュレーションした『森山大道 レトロスペクティブ』など、精力的に活動を展開。

