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ARTIST TALK

ビルドスペース Camera Mia(私の部屋) 

国広陽子(武蔵大学名誉教授・社会学者)+ 山田なつみ(写真家) 対談

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山田:

みなさま、本日はトークショーにお越しいただきありがとうございます。写真家の山田なつみです。

国広:

国広陽子と申します。以前は大学で社会学を教えていましたが、68歳で定年を迎え、8年前に退職したので今はのんびり過ごしています。横浜に住んでいて山田さんとは初対面なのですが、本日はご縁があってこちらに伺いました。山田さんは私よりも一世代若い方ですし、アートに関して私はど素人なのですが、共通のお話ができることを嬉しく思います。

山田:

私は写真家として活動していて、作品はパッと見て評価されることを念頭に置いていない作品ばかりです。それよりも、自分の中に浮かんできたものを、日記に書くような気持ちで写真に収めています。日記なので人に見せるものではないのですが、もう一度焼き付けたいと思う一瞬や一日をプリントし直すという作業を何年も繰り返した結果、作品となって今日ここ(ビルドスペース:宮城県塩釜市のギャラリー)に掛かっています。国広さんを知ったきっかけは、宮城県大崎市にある吉野作造記念館で国広さんが講演された時です。

国広:

4年くらい前ですね。

山田:

そうですね。「人生100年時代で、これからをどう幸せに生きていくか」というテーマの講演会でした。その頃の私は育児が大変で、家事や仕事も思うようにできず、自分の立ち位置が見えない中、すがるように申し込みました。先生の講演を聞いて、上手くいかないことがあっても試行錯誤を繰り返す中で楽しみや意義を見出せるということがわかり、とても励みになりました。先生自身はどのようにして研究の道に進まれたのでしょうか?

国広:

私が大学院で勉強し始めたのは40歳の頃です。大学を卒業してからは企業に就職し、比較的早く結婚して子どもを産みました。当時は保育所がそれほどなかったので、1人目は実母に預けて働きました。しかし、2人目が産まれると母に「もう見れない」と言われ、仕事を辞めることにしました。それが31歳の時です。その後もフルタイムの仕事をしたかったのですが再就職するような方法もなく、育児の傍らでフリーライターや編集者としての仕事をこなしていました。夫は仕事を辞めて主婦になった私に対し、「路傍の主婦だ」と言ってきました。その頃私はエッセイを書いていたのですが、夫の「路傍の主婦」と言う言葉がなんとなくしっくりきたので、『路傍の主婦』というタイトルで本を出版しました。当時主婦が本を出版すること自体が珍しく、新聞や雑誌に取り上げられて急に注目されました。けれど、私の立ち位置はあくまでも「主婦」。大学でも一生懸命勉強したのに、なんでこうなってしまったのかと思い悩み、さらには子宮筋腫という病気かかってしまって、ライターや編集の仕事もできなくなりました。当時は平均寿命が80歳くらいでしたので、あと40年どうやって生きればいいのかと不安になり、それが大学院に入るきっかけとなりました。当時はフェミニズムやジェンダーという言葉がほとんど知られていなかったのですが、それを勉強できる大学院を見つけたのです。女性の教授に後押ししてもらい、「主婦とジェンダー」というテーマで博士論文を書き上げました。それが49歳の時です。

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山田:

先生の著書に「主婦と見られている(が自分では主婦と思わない)」という意識は、こうした世間の対応や、社会的なカテゴリーの強制、すなわち『自分を主婦とみなす社会のまなざし』の自覚から生じている。また、夫や娘がそうした社会のまなざしを代表する場合もある。」(国広陽子著『主婦とジェンダー』より引用)という言葉がありますが、女性を主婦から解放するということはどういうことなのか、どんな方法があるのかお聞かせいただけますか?

国広:

私は正直、フルタイムで仕事をしている時に、ゴミを出した後に奥さん同士で話している姿を見て、主婦は暇な人たちだと思っていました。これは勝手なイメージなのですが、実際に自分が主婦になった時にそんな風に見られることが耐えられなかった。育児も家事も大変だし、やることが山ほどあるのに、世間からは何者でもない人って思われるわけですから。それで、周りにいる私と同じような境遇の人たちに「あなたは自分のことを主婦だと思う?」と聞いたら「主婦だけど普通の主婦だと思いたくない」という返事が返ってきました。つまり、主婦から自由になるということは、自分の中に内面化してしまった「主婦」という社会から評価されない存在を、何らかの形ではねのけることができないといけない。さらに、フルタイムで働いていようがいまいが、結婚した女性を「主婦」とみなす社会の目があります。ですから、社会の見る目を変える、つまり「主婦」というカテゴリーの全容を把握し、無効化しないといけないのです。そうすればこのカテゴリーを解体できると思ったのですが、これがなかなか難しい。

山田:

そうですよね。私は意識の外側にある風景やものを撮って、それを写真として表現している作品が多いのですが、福島の風景を収めた『フォルチュネ島』という初期のシリーズ作品もそのひとつです。私はパリから帰国した2010年に福島に住み始めました。雪と山と湖に囲まれ、杉林に霧が立ち込めていている会津の風景を見た時、モンブランを望むスイスの風景を超えた世界が広がっていると感じました。日本の原風景がそこに凝縮されていて、私にとっては異世界のように感じられたのです。その頃の私は「主婦」とカテゴライズされており、子どもを流産して、また妊娠したのですが、不育症で赤ちゃんが育たないという経験をしました。身体を心配する夫には撮影を止められていましたが、福島県奥会津の風景や人々を自分で撮ってみたいと強く感じ、その風景が当時の自分の心象風景とすごく重なっていて、自分が逆に赤ちゃんになって雪室という子宮に入ったような安心感を覚えていました。「主婦」と言われようがなんだろうがやってやろうと腹を決め、何度も通って撮り続けたシリーズです。子どもがようやく生まれた頃には、周りから「写真なんて撮っている場合じゃない」とか「子どもがちゃんと育たないかもしれない」「趣味じゃダメなのか」などと言われ、すごく悔しい思いをしました。フランスでプロのジャーナリストをやっていた自分が、結婚して夫の扶養に入り、子育てメインの生活をしていることが本当に悔しかった。だからある日、自分がやっている名もなき家事に全部名前を付け、ストップウォッチで時間も測ってリストにしたんです。そしたら、子育て中の主婦の仕事は、看護師さんの夜勤レベルの仕事だということに気づきました。特に子どもが赤ちゃんの時は、夫は子育ての大変さを過小評価していました。「僕は外で一生懸命働いているのに、君は家の中で赤ちゃんの世話をして、気楽なもんだな 」と。彼は、子育てが常に注意と努力を必要とするフルタイムの仕事であることに気づかなかった。私は母乳という血液を子どもに与え、フラフラになりながら月に何キロも痩せるわけです。食べられないし、トイレにすら思うように行けない。家事に関しては家族一人ひとりに合わせてカスタマイズして、サービスを変えている。こうして身体を削りながら専門職をこなしているのに、それに対する評価があまりにも低いと思いました。これを「母性愛」という名の下に無償で当たり前のように行わなければならないことにすごく疑問を持っていて。それで、私は夫に「私が世帯主になる」と宣言し、市役所に行って聞いたら「家族だったら誰でもいいです」と言われたので、そのまま世帯主になりました。そしたら自分が望んで子育てをしているんだって思えるようになり、気持ちが前向きになって、写真にも打ち込んでいけるようになりました。その後、大きなギャラリーや東京のカメラメーカーの方からお声がけいただいて個展を開くことになり、堂々と「私は写真家だ」と思えるようにもなりました。

国広:

うちの場合、夫が家事をやるのは当然のものとして当番制にしていました。でも自分に収入がないと夫に養われているからと思ってしまい、そこから抜け出すのが難しくなりますよね。私もすぐに世帯主になりました。学校の書類にも保護者の欄に自分の名前ではなく父親の名前をつい書いてしまう人もいますけど、それを自分の名前にするだけでも気分が全然違うと思います。以前、政府が家事の年収を試算していましたが、相当な金額になるんです。でも残念ながら実際にはもらえないので、家事を1人で抱え込まないでなるべく分散し、簡略化するのも大事だと思います。そして、女性は黙って子育てをしていれば幸せだっていう思い込みを打ち壊すことも大事。子どもは可愛いし育児はすごく大切ですが、子どもが大きくなった後に女性にやることがなくなってしまうという状況は、社会にとっても良くないことだと思います。

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山田:

私も制作活動を主軸にしたいので、家事は簡単に済ませるようにしています。私は元々左利きで生まれてきたのですが、祖母に言われて矯正し、今では右手でしか字が書けませんし、右手でお箸を持って食事をします。けれど唯一、写真を撮る時は左目でカメラのファインダーを覗き、右脳で見た世界で物事を捉えています。この写真は実は電柱を写した作品なのですが、電柱を撮り始めたきっかけは、女性に与えられた役割というのは電柱のように固定化されていて、社会のインフラとなっていると常々感じていたからです。みなさん電柱を見た時に「この電柱かっこいい!」とは思いませんよね?ヨーロッパでは、景観を損なわないように電線が地中に埋め込まれているため、電柱がほとんどありません。一方、日本では第二次世界大戦後、焼け野原になった日本は急速に経済発展を遂げ、高度経済成長期の大量の電力消費に対応するために電柱を立てていきました。そして、資本制と家父長制の構造において、男性が家長となって外で働き、女性は家に留まって家事をするというスタイルはとても効率が良く、世帯が増えれば増えるほど電柱の数も増えていきました。その数は、大小合わせると約55万本もあると推定され、それは日本の世帯数と重なる数です。その一本一本の電柱が、私の中で家に留まっているお母さん像と重なったという背景があって『ユビキテ』というシリーズ作品が生まれました。「ユビキテ」はフランス語で「どこにでもある」という意味です。この写真は電柱の反射板を写したのですが、日に当たって色が退化し、反射すらできない状態になっているところを捉えています。この時は、決まった役割を担わされているお母さん像をイメージしながら、自分とも重ねながら撮っていました。警告を意味する黄色と黒の反射板が退化して、反射板の元々の材質であるアルミが露出している。つまり、外から当てられた光を反射させていたものが、退化しすぎて今はアルミとして自ら光を放っている。これは、私自身が「世帯主としてやっていく」と決断した自分と重なる気がして撮影した作品です。先生にお伺いしたいのですが、看護師、保育士、秘書、介護士、家政婦など、いわゆる「ピンクカラージョブ」と呼ばれる、女性が多く占める職種があります。主婦と手に職をつけている人の違いというか、女性がたくましく生きていくにはどういった生き方が望ましいのでしょうか?

国広:

家では無償でやっている仕事を、外に出て低賃金でやっているというのが「ピンクカラージョブ」だと思います。でも賃金が低いことは仕事としての価値とは全く関係なくて、コロナ禍を経てその人たちが一番大事な仕事をしているということに、やっと世の中の人たちが気づいたわけです。彼らなしで社会は成立しなくなっているということがわかった。それなのにそういう人たちの給料や評価や社会的地位が依然として低いわけじゃないですか。それは間違っていると思います。だから逆に言えば、そういう仕事が大事だとわかれば、主婦としてそれをやっている人が誇りを失うこともないし、男性も家のことをやるんじゃないかと思うんです。仕事というのは、そこに価値があるということに社会が気づいて、しかもそれを評価しなければいけない。けれど主婦が家でやるような家事の延長線上にある仕事は、元々は家で女性が無償でやっているからという理由で納得させて安くやらせている。それを変える手短な方法は政治なのですが、日本の政治は男性が牛耳っていますよね。マスコミも大手広告代理店もトップはほとんど男性です。世界を見渡すと、国連や世界的な団体が目標を立ててこうした価値観を変えているのですが、日本の政治家はお金儲けや武器を作ることに重点を置いています。彼らの価値観を変えるのは難しいので、女性の政治家が増えることを願いたいですね。

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山田:

私は言葉の世界と現実の世界をつなぐものとして、写真が存在していると思っています。パリに住んでいた頃は、アトリエに行ってアーティストの人の話を聞き、ポートレートを撮って記事を書くという仕事が多かったのですが、やはり求められるのはステレオタイプ的なパリのイメージが多かった。けれど、ステレオタイプではないものを常に作りたいという気持ちが常にあって、写真、そして創作に向かうようになりました。12年前にこのビルドスペースで個展を開かせてもらい、そこから一巡してまたここに戻ってきました。写真には、言葉を介さずに万人に伝わるという特性があります。よく「どういうカメラを使っているのですか?」とか「どういう技術でやっているのですか?」と聞かれて、特別な技術があるように思われるのですが、私自身は写真家というのは眼差しが何よりも大切だと思うんです。だから写真は、「私はこのように世界を見ました」という提示そのものだと思います。アート業界も男性の方が多いのですが、私のように子どもを育てながら作品を作っている人は、珍しい視点を持てるので逆にチャンスがあると思っています。右利きが多い世の中で、左利きとしての面が生きてくるチャンスが巡ってきたのと同じように、それを実感しています。最初の話に戻りますが、「プランがあってそこに向かうのではなく、挫折と学びを繰り返すことに意味がある」という先生のお考えは、本当に写真の原点だと思います。絵画の場合は心象風景を呼び起こしてずっとその方向に向かって創作していきますが、写真は被写体がないと撮れないので、今あるものをいかに自分のフレッシュな視点で切り取るかが勝負。「私の眼差しはこれです」という提示の連続なんです。私は、ノーベル賞受賞者のカズオ・イシグロさんという作家が好きで、彼の作品に『わたしを離さないで(原題:Never Let Me Go )』というものがあります。この小説は、病気がなくなる世界を描いています。遺伝子的にコピーされた人間がもう1人いて、例えばがんが見つかったとしても早期で見つけて、臓器をその人からもらって生きていける。外の世界で生きている方の人間は自由に生活し、旅行もしているのですが、ドナーになった方の人間は寄宿舎のような学校の中にいるんです。そこで、自分たちは特別な存在なんだ、慈しみの深い存在なんだと言われて育ちます。これはまさしく「母親」だと思いました。そこにいる子どもたちは同じ場所で固定されて生きている。外の世界で生きている人たちが病気になったら彼らは臓器を提供して、結局死んでいくんです。そこでは、固定されていないと見えない世界がみずみずしく描かれています。例えば車で走っていたら見えなかった美しい風景や、雨上がりの情景、晴れている瞬間、あとは友達と何気なく肩を組んで楽しかったとか、そういう情景が固定された空間の中で事細かに描かれています。イシグロさんが密封された世界から外の世界を見ている、そして閉ざされた世界の中を淡々と事細かく見つめているような視点は、私が写真を撮っている視点と重なると感じました。資本主義で効率を求めるが故に分断が生まれ、動ける人と固定された人が存在する。私はその構図が繰り返されていく中で、言葉を介さずに写真でその溝を埋めるような、橋渡し的な作品を作っていけたらいいなと思っています。

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国広陽子(くにひろ ようこ)

横浜市在住。武蔵大学名誉教授。公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター理事。博士(社会学)。ジェンダーとメディア、女性の政治参画などを研究。40歳で大学院に入り50歳で大学に勤務。

著作に、『主婦とジェンダー』(2001)、共編著『テレビと外国イメージ-メディア・ステレオタイピング研究』(2004)『メディアとジェンダー』(2012)、共著『テレビという記憶』(2013)『テレビ報道職のワーク・ライフ・アンバランス』(2014)、『テレビ番組制作会社のリアリティ』(2022年)などがある。

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